belief and practiceという見方の怪しさ
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環流夢譚 その6――「宗教」概念という近代の神話|DJ プラパンチャ
宗教学者の磯前順一(1961-)は、次のように述べています。 プロテスタンティズムを中心とする近代の西洋社会では、明確な教義のかたちをとるビリーフが重視される一方で、非言語的な儀礼行為を主とするプラクティスはそれに従う副次的なものとみなされた。同様の眼差しは非西洋社会の宗教現象を理解するさいにも向けられた。イスラム教や仏教以外の、明確な教義体系をもたない諸宗教は、それがゆえに劣等な宗教とみなされたのである。そして、その眼差しを向けられた側も、またみずからの宗教を劣等なものとみなし、西洋的な教義体系をそなえるものへと改変していったことも珍しくない。ここには、ビリーフとプラクティスの格差を梃子とする文化的ヘゲモニーの確立過程をみてとることができるであろう。 磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』岩波書店、2003年、pp.12-13、太字引用者
また、人類学者のジャック・グッディ(1919-2015)は次のように指摘しています。
アフリカの諸言語に西洋の「宗教」にあたる語はみいだせないし、「儀礼」もそうである。もっと大切なことは、行為者が宗教的信仰と実践(beliefs and practices)をわれわれ――イスラーム・ユダヤ・ヒンドゥー・仏教・キリスト教・無神論者のいずれであれ――のように、ひとまとめのセットと見なしていないようにみえることだ。この違いは次の点にもあらわれている。アフリカの宗教はセクトやチャーチとしてばかりでなく、キクユの宗教とかアシャンティの宗教とわれわれはよんでいる。つまりひとつの宗教は、部族や王国といった領土的に区切られた集団の信仰と行為とのかかわりで定義される。アシャンティの生活様式というもっと包括的な概念と別個にアシャンティの宗教という考え方が形成されたのは、イスラムやキリスト教との競合関係に入ってからであるといえる。まず観察者の頭のなかに、つづいて行為者の頭のなかに。
関一敏「呪術とは何か 実践論的転回のための覚書」、白川千尋・川田牧人編著『呪術の人類学』人文書院、2012年、pp.85-86、太字引用者 「まず観察者の頭のなかに、つづいて行為者の頭のなかに」というのはおそろしい指摘です。「宗教」という西洋中心主義的な新しい概念が、現地の人々の文化を組みかえ再構築していったということです。現地の人々も、西洋から持ち込まれた新しいイデオロギーを受け入れ、自分たちの文化を再構築していったことも物語っています。世界のあちこちでこういうことが進行していったのです。ともあれここで確認しておきたいことは、「宗教」というのは中立的で客観的なジャンル概念では全くなく、西洋中心主義的なイデオロギーや暴力性を含んだ概念であるということです。
宗教を慣習の方面から見るよりも、むしろ信仰の方面から見ようとするのが、現代のわれわれの傾向である。たとえば比較的近代にいたるまで、ヨーロッパにおいて真剣に研究されたほとんど唯一の宗教組織は、諸種のキリスト教会のそれにほかならなかった。そしてキリスト教国の各方面は、儀典というものは、ただ単にその解釈に関してのみ重要である、というに一致していたのである。このように宗教の研究といえば、主としてキリスト教信仰の研究を意味し、宗教上の訓練は、習慣的に、受け入れなければならぬ教義的真理から発出したものとして信者に要求される信仰箇条と、宗教上の義務とをもってはじまるのである。すべてこれらのことは、われわれ現代人にとっては、まったく当然なことと見られるので、一旦ある特殊な宗教または古代の宗教に向かうと、ここでもわれわれの第一になすべきことは、信仰箇条の探求であり、そのうちに儀典や慣習への鍵を見いだすことだと、ただちに速断してしまうのである。もちろん、いかなる人々でも何かそれに意味をつけることなしに、ただ習慣的にある慣習に盲従するものではない。しかし通例、慣習は厳格に規定されていても、それに付随している意味は、きわめてあいまいであった。そして同一の儀典が異なる人々によって各様に説明せられたが、その結果、別に正統派だとか異端だとかの問題の惹起されることはなかったのである。たとえば古代ギリシアにおいて、ある種のことどもが神殿で取りおこなわれ、民衆はそれをなさぬことは不虔であるというに一致していた。しかし、もしかりに彼らにむかって、なぜこれらのことがなされねばならぬかと質問したとすれば、おそらく相互に矛盾する各様の説明を、各人から聞いたにちがいないのである。そして、どの説明をえらんで取るにしても、だれもそれを宗教的にいささかも重大な意味のあることとは考えなかったであろう。
W.R.スミス/永橋卓介訳『セム族の宗教』岬書房、1969年、pp.34-35、太字引用者 ここで注目してみたいのは、「宗教を慣習の方面から見るよりも、むしろ信仰の方面から見ようとするのが、現代のわれわれの傾向である」「キリスト教国の各方面は、儀典というものは、ただ単にその解釈に関してのみ重要である、というに一致していた」という箇所です。これは、「宗教」におけるプラクティスはビリーフに基づいて成り立っており、プラクティスが行われる意味はビリーフによって説明可能だという考え方です。「宗教」におけるプラクティスの意味は、どのようなものであれ言語化したり解釈したりすることが可能だというイデオロギーだとも言えます。
2025/1/4にpick
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説明的であろうとする近代的態度の源泉。
村上隆がスーパーフラットについてどういう考え方してるのかはしらんけど、言葉として便利なので一旦そう言っておく。
スーパーフラットと言いながらヘゲモニーがある。
それはそれとして言語的に体系化可能でかつより根本的真理に見えるBeliefをもつ宗教のほうが好みではある。仏教より神道のほうが「語れる」し「信じられる」。